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鶴田浩之の個人ブログ | since 2005

Category: インド旅【2010】 (page 5 of 9)

「その先に見つめるもの」2010年インド・ラダック洪水 取材レポート

北インド、2010年の8月4日〜6日にかけて発生した未曾有の水害は、ラダック全域に被害の爪痕を残していた。僕は8月10日の朝、デリーから空路で現地入りしたのだが、レーの空港では、「一刻も早く帰りたい」旅行者たちが、チケットカウンターに殺到していた。数日間にわたってフライトが欠航になり、400名近い旅行者が、標高3500メートルを超えるこの辺境の土地に孤立してしまったのだ。帰ろうとする彼らとすれ違う形で、僕はラダックにやって来た。2年ぶりだ。

ラダック、その名前が好きだった。僕はしばしば名前を聴くだけで直感的にそれを好きになってしまうことがある。地名や、人の名前や、本の名前だってそう。「Ladakh」— すごく素敵な地名だった。僕にとってその音の響きは、冒険的な(でも、とても穏やかな空気の中を歩いているような)感覚を予感させた。そこの空気が好きだった。

現地入りした翌日、ラダッキの友人Tenzinとマーケットで合流する。彼とは、2年前に初めてこの土地に来たときに知り合い、友達になった。2年前、寒さで凍える旅人の僕に、カーディガンやマフラーを着せてくれて、温かいチャイを入れてくれた。僕は彼にあってすぐに「ラダックの復旧活動を手伝いたい」と申し出たところ、「明日はマーケットを閉めてチョグラムサルにいくから、一緒に行こう」と誘ってくれた。彼の友人を数人連れて、11人でチョグラムサルに向かう。この日の朝刊では、洪水による行方不明者は500名を超えたと報じていた。

レーから車で20分。チョグラムサルの街は、ほとんど瓦礫の街と化してしまっていた。メインストリートは車が一台通るスペースだけ整備されていたが、道に面している左右の店は、ガレージが破壊されて中に土砂や岩が入り込んでいる。人々がスコップを使って、土砂を掻き出している。街は壊滅的な状態ではあったが、人々はその現実を受け入れて強い意志を持っていたようだった。

僕が街や人々の写真を撮っていると、近くにいた女の子が、ちらちらとこっちを気にしているようだった。「写真を撮ってもいい?」と声をかけると、嬉しそうに応じてくれた。10歳くらいのの子供から70代の老人まで、みんなマスクをして、スコップを手に持ち、街の復旧のために働いていた。

現場にいて驚いたのは、その大量の土砂、ヒマラヤの山から流れてきた木片、そして巨大な岩。その木片やら流木を、ひとつひとつバケツリレーをして運ぶ。何時間も続くこの作業に、僕も加わった。外国人はほとんどいなかった(中国人が、一人いてその後少し話した)

炎天下、標高3500メートルの酸素の薄い高地での作業は、体力を奪われる。

人々が「1、2、3」とラダック語で掛け声を言いながら、何百キロとも推測される、巨大な流木を動かしている。10人で30分以上かけて、ようやくこの大木が動いた。洪水の凄まじさが分かる。

近くには子供たちが遊んでいた。子供たちは、ほんとうに可愛い。

「このエリアで、多くの人が死んだよ。」Tenzinは説明してくれた。僕はうなずく。

「ここはたくさんの家があったけど、ぜんぶ流されてしまったんだ。」

本来、この写真の場所は決して川ではなかった。ここには車が通れるほどの、小さな道があったらしい。洪水の影響で、なんと川ができてしまったのだ。周辺の家は、流されるか破壊されるか、土砂に埋まった。

ヒマラヤの山々から冷たい水が流れだし、その音は悲しげだった。人々はその川で、洗濯をする。

午後、僕らが土砂の掻き出しに手伝った家は、本当に悲惨なものだった。家の3分1が土砂で埋まり、その上に流木や岩が流れ込んでいる。壁は破壊され、窓は割れ、もうここに住むことはできないだろう。スコップでひたすら土砂を掻き出し、終わりのみえない作業を繰り返した。

作業の途中、僕が休憩していると、物々しく人がぞろぞろと集まってきた。「何か、あるみたいだ。」みんなが中をうかがっていた。僕はそこにいるのがとても辛かった。

お昼は炊き出しが行われ、全ての人たちに食事が振舞われた。カリフラワーの入ったカレーは本当に美味しかった。この時は人々も笑顔を見せ、リラックスした様子だった。一緒に向かった僕らは仲良くなり、冗談を交わしたり、ラダック語を教わったりした。

帰路、道が封鎖されているために迂回して、車はインダス川沿いを走る。綺麗なはずのインダス川は濁流になっていて、水が道路まで溢れ出している。洪水から数日経った時でもこの状況であるから、当時は凄まじい鉄砲水だったことが想像できる。

レーのバススタンド付近は、鉄砲水が直撃し、悲惨な状況になっていた。「まるでヒロシマ、ナガサキみたいだ」と、みんなが口を揃えて言った。バススタンド付近にあった電話局がやられ、電話やインターネットのライフラインが壊滅的になったのだ。

インド、ラダック。多くの人は、この土地の名前さえ聞いたことがないかも知れない。ラダックは冬がくるとマイナス20度にもなり、雪で峠が封鎖されるために物資の流通が困難になる。500名以上の人が亡くなり、まだ見つかっていない人もいる。当時現地に滞在していた山本高樹さんの話によると、ある子供の遺体を土砂の中からひきずり出したら、その兄弟と思われる子供たちの遺体も出てきて、その子たちが互いの手を固く握り合ったままだったらしい。その現実を前に、僕らは祈るしか無いのか。

日本に帰ってきて2週間経って、温かい布団に潜って眠りにつくとき、ふと頭をよぎる。僕の目をじっと見つめていたあの女の子は、いまどこで、何をしているのだろうか。温かいスープが、飲めているだろうか。

今回、偶然にも旅の過程でこの災害が発生し、その現場で現地の人と共に復旧活動を手伝い、そして何枚かの写真をこうして撮ってくることができた。ラダックは年間降水量が平均80mmの土地だ。下手すると東京で1〜2日に降る雨の量がそれにあたる。そんな乾燥した土地で、洪水なんて。最初聞いたとき、信じられなかった。文字通り、未曾有の災害だった。そこに19歳になった僕が、たまたま居合わせた。日本に帰ってきた今、僕にできることは何だろう。誰かに伝えることしかできないかも知れない。現地でも無力だった。この記事を通して、写真を通して、一人でも多くの人に知ってもらえたら嬉しい。

2010年インド・ラダックの旅の記事一覧

【ラダック旅2010】レー1日目(8/10)

2010年8月10日、2年ぶりにラダックにやってきた。ラダック、まずその名前が好きだった。僕はしばしば名前を聴くだけで直感でそれを好きになることがある。地名も、人の名前も、本の名前だってそう。「Ladakh」すごく素敵な地名だった。そこの空気が好きだった。空が近い。気温15度。涼しい。湿度0パーセント。息を吸うと、ノドが一瞬で乾く。空気が薄い。標高3500メートル。富士山八合目。心臓が高鳴る。

その日は午前3時に目覚ましをセットし、午前4時にデリーのメインバザールの宿を出発した。まだあたりは暗い。渋谷は眠らない街だが、ニューデリーのメインバザールはしんとしている。手配していたタクシーが来なかったので、別のタクシーを呼ぶことに。朝方は道路もすいていて、30分ほどでインディラ・ガンディー国際空港についた。ジェットエアウェイズの窓口でチェックインを済ませ、セキュリティチェックを済ませ、1時間ほどの待ち時間。空港内ではトランジット客の多くがソファを占領し横になっていた。定刻出発。数日前のラダック洪水の影響で、繁盛期にもかかわらず搭乗率は20%未満だった。普通この時期は航空券も取りにくく価格高騰しているというだけあって、不思議な感じがした。デリーからレーまでのフライトは1時間30分弱だが、BREAK FASTが出される。ジェットエアウェイズの機内食はまずまず美味しい。

40分ほどすると、5000メートルを超えるヒマラヤの山々の景色が一望できるようになる。当機はインドの辺境、ラダックに向かっている。

レー空港に到着して、パスポートの登録を済ませ、タクシーでレー市街地に向かう。タクシーの運転士は、粋な25歳のハリー。ゲストハウスにも案内してもらった。1週間しばしば会ったが、いつもテンション高くてうるさかった。笑

レーでの宿は、「SANGAYLAY GUESTHOUSE」3人で、1部屋400ルピー。庭があって綺麗なところだったし、ホットシャワーも出るしトイレも綺麗だということで決定。メインバザールまでは10分ほど歩くが、騒がしいより静かなほうがいい。騒がしいのはデリーで十分だ。

「ジュレー」「ジュレー、アマレ」

宿のお母さん、Phunchok Dolma。笑い方が素敵な人だった。

今回の旅で、挨拶程度のやり取りならラダック語を話せるようになった。「ジュレー」とはラダック語で、こんにちは、ありがとう、さようなら、いろんな意味を持つ。アマレはお母さん、アチョレはお兄さん。

庭は綺麗に手入れがされていて、花が咲き乱れている。桃やアプリコットの木も生えていた。

ゲストハウスの飼い犬。ゴンちゃん。(名前は僕らが勝手につけた)かなり老いぼれで、足を引きずりながら、1メートル歩くのに1分くらいかかっていた。おとなしくて可愛い。近寄ると逃げていったが、最後の日に僕は「お手」を習得させることに成功した。

同じ宿に泊まっていた他のお客さん。デリーからマナーリを経由して、3日かけて車でラダックまで来たそうだ。5000メートルの峠を超える道。職業はドライバーらしい。いい人たちだった。ラダックは住んでいる人もそうだが、訪れる人たちも、みんないい人たちだ。

ゲストハウスでチャイをもらい、彼らと一通り世間話を済ませて、眠りに入る。

ラダックは急に3500メートルの高地に入るということで、多かれ少なかれ高山病の症状が出る。慣れるために、初日はゆっくり安静にするのが鉄則だ。無理に歩くと頭痛や吐き気がする。1リットルの水を飲んで、4時間ほど眠る。

それからメインバザールや、あたりに散歩に出かけた。懐かしい。レーのメインバザール付近は、洪水の被害は特に見当たらないようだった。人々は変わらず生活をしているようだった。でもそれは、レーのメインバザールに限った話だったと、後になって知る。

女の子のほうから「ジュレー」と声をかけてくれたから、
写真を撮ってもいい?ってラダック語で尋ねたら、快諾してくれた。

1時間ほど散歩し、ゲストハウスに戻って、少し早めにご飯に出かけた。

夜は、GESMO RESTAURANTでVEG. Thukpaを頂く。トゥクパ。チベタン料理だ。うどんのようなもの。店には、洪水の被害の影響か、チキンが一切無かった。だからチキンを使ったカレーやタンドリーチキンはすべてクローズ。でも僕はあっさりとしたチベタン料理が好きだった。インド独特のあのスパイシーな味に飽きた頃、チベタン料理を食べるとほっとする。優しい味だ。

そんな感じで初日はのんびり過ごした。

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