もっちブログ

鶴田浩之の個人ブログ | since 2005

Category: コラム・エッセイ (page 15 of 16)

日本でスタートアップを立ち上げて9ヶ月が経って思うこと

2011年は、いろんなことが起きた。まず個人的な話から始めると、僕は20歳になった。故・金正日総書記と同じ誕生日だから、毎年テレビでは祝福のパレードの様子が放送されていたのだけど、それも今年で最後になった。今年は、親しい友人たちが僕の家でこっそりとパーティの準備をしてくれていた。何も知らされていない僕が、普段どおり帰宅して部屋に戻るとクラッカーが鳴るという素敵なサプライズだったのだけど、ひとつだけ完璧じゃないところがあった。玄関にはみんなの靴が、無造作に置きっぱなしだった。まるで大家族みたいに。みんならしいなぁと思わず笑ってしまったし、とにかく嬉しかった。ありがとう。みんなの優しさを感じて、彼らのためにも世界をもっと面白く、より良くしていきたいと決意した1日でした。

それが2月16日のことで、その4週間後に、東日本大震災が起きた。


『PRAY FOR JAPAN – 3.11 世界中が祈りはじめた日』初稿ゲラ

東日本大震災が起きて、本を出版して、仲間と会社を作って、それから、スティーブ・ジョブズが死んだ。

僕は誕生日のとき、こういった内容の文章を書いたことを記憶している。

“人は、20歳までに考え尽くしたことが、その後の人生の中で少しずつ形になっていくのかもしれない。”

10代の過ごし方はとても重要だと思う。「その人となり」を作っていく。多かれ少なかれ、物事の考え方や、人生における仕事の基礎(技術やコミュニケーション能力)の大部分は10代で身につく。その時期に働かせられる想像力こそが大事だと僕は思っていた。

でもこれはある意味では正しかったけど、ある意味では間違っていた。僕が20歳になって3週間後に、東日本大震災が起きた。誰が想像できた?まるで想像なんてできない。世界の成り立ちは一瞬で変わってしまった。大切に思っていたものがそうではなくなったり、ありふれたものが急に大事に思えたりもした。

3月11日当時、僕は栃木県の教習所で車の免許を取っていて、乗っていた車は揺れながら1メートル近くも移動した。2回の大きな揺れと地鳴りがあって、僕は不気味さを体に覚えた。空だけが、青々と晴れわたっていたから。しばらくしてあの津波の映像がニュースで流された。2010年夏、ラダック滞在中に経験した洪水の様子が蘇ってきた。わずか半年間で、僕の大好きな土地が2度もこんなことになってしまった。

その日の晩、停電中だった一時避難所で「prayforjapan.jp」を立ち上げた。何度も余震が起きて、毛布にくるまりながら、かろうじて拾った電波で情報収集をしながら、ほとんど何も考えず反射的に手を動かしていたと思う。最初は友だち数人だけに見せていたサイトが、これまでに700万人を超えるアクセスがあった。そのうち9%は海外からのアクセスで、国内外で30以上のメディアで紹介された。台湾では、大規模な寄附金を集めたあのチャリティー番組のなかで紹介されたりもした。4月には講談社から『PRAY FOR JAPAN – 3.11 世界中が祈りはじめた日』を出版して、印税はすべて寄付をした(僕の今年の個人的な収入より大きな金額だった)。書店に行くと、自分が作った本を読んでる人がいるというのは、とても不思議な感じがした。


出版後に届いた数百枚のハガキ。メールやTwitterでのメッセージも2000通を超えた。

皆さんご存知の通り、『prayforjapan.jp』のウェブサイトとその後に出版した本は大きな反響があって、9ヶ月以上経った今でも、たとえば被災地に住んでいる、中学3年生の女の子から直筆の長い手紙が届いた。(今でも、僕のデスクの前に貼ってある)。ときどきその純粋な気持ちで書かれた手紙を読むことで、僕は自分の気持ちを整理している。86歳のおばあちゃんが震える手で綴ってくれたハガキを読んでいると、僕の手が震えてしまった。。本の著者、あるいは監修者になるというのは、人生でも特別な体験だった。マスコミや教育機関からの問い合わせも多かったけど、とりわけ個人からのメールや手紙がとても印象的だった。数百万という数字よりも、自分のもとに届いた1通の手紙のほうがずっと重みを感じる。

「本を読んで、強く生きようと思いました」「子供が大きくなったら必ず読ませます」という被災地の方々から届いた手紙は、本当に嬉しかったし、むしろ僕が励まされた。出版後、多くのイベントにもスピーカーとして招かれて『PRAY FOR JAPANのデザインプロセス』というタイトルで講演やトークをさせて頂く機会があった。

本の印税額は、400万円〜500万円くらいになる。100億円寄付した孫さんと比べると小さな額かもしれないけど、宮城県や福島県の自治体、そして信頼できるNPOや日本財団に託そうと思っている。寄付金の使徒は、なるべく子どもたちの就学支援や教育に関連するものであってほしい。僕は個人では10万円だけしか寄付できなかったけど、こうして本の出版を通して、少しでも出来ることが会ってよかった。ラダックの洪水のとき、何も出来なかった自分よりは、少しは成長しただろうか。

2011年の前半は、だいたいこんな感じだ。


Labitの代官山オフィス

仲間と会社をはじめて最初に感じたことは、恍惚感でも情熱でもビジョナリーでも無くて、ただの閉塞感だった。

どんなストーリーにも、影がある。誰も語ろうとしないだけで。

僕が2011年でもっとも印象的だった日は、3月11日の次に、2月4日があげられる。『16歳で起業して4年間やってきて思うこと』というエントリーを書いて(この記事は、一人で夕食をとっていると急に文章が書きたくなって、朝にかけて一気に書き上げた)、大きな反響を呼んでしまった。1週間で30万人に読まれ、2500はてブされ、FacebookやTwitterではメッセージが殺到した。僕は14歳から7年間このブログを書いているので、ときどき特定の記事が取り上げられて話題になることはあるけど、ここまで反響が大きかったのは初めての経験だった。ベンチャーキャピタリストや起業家から一般読者まで、様々なフィードバックがあった。数十人と会い、僕がもっとも心惹かれた西川さんから出資を受けて、会社を設立することにした。当時、僕は19歳だった。

あのブログ記事を書いて、会社の設立と出資が決まり、20歳の誕生日を迎え、東日本大震災が起きて、prayforjapan.jpを立ち上げ、会社を登記させ、本を出版した。ざっくりとした経緯はこんな感じだ。当時は、同時に5つくらいの大きな問題に取り組んでいて、ほとんど立ち止まる暇が無かったように思う。

2011年の2月初旬〜4月下旬にかけての僕の人生の急激な変化は、とてつもなかったように思える。付き合う人たちが変わり、ものづくりに対する姿勢も変わった。実際的なスキルもちょっとずつ身につき、世の中の成り立ちに対する理解が、現実感と共に深まった。僕は19歳のときに、もう自分自身について分かった気になっていた(今だってそうかもしれない)。これ以上自分はどうにもならないなと勝手に思っていても、人はある特定のまとまった期間に変わっていく。あのブログ記事はもう過去のもので、わずか10ヶ月間で全部が書き換えられるほど新しいことが起きてしまった。

過去を振り返ってみたときに、妙に輪郭がくっきりとした時期が自分の人生のなかに含まれていることに気づく。それは16歳かもしれないし、25歳かもしれないし、40歳かもしれない。僕は20歳の春だった。でもこういう感想は毎年のように抱いているから、僕の仮説でしかない。ずっと濃い人生だったと思えるかもしれないし、そういう時期は実は今だけで、この後はずっと輪郭がぼやけた人生を歩むのかもしれない。それはまだ20歳の僕には分からない。

Labitという会社は、labとbitを組み合わせた造語が名前の由来にあって、会社が将来 ─ たとえば100人や1000人規模の大きな組織になったときも、ラボのような雰囲気でありたいという想いが込められている。小さな試行錯誤から、新しいライフスタイルを実現してイノベーションを創り出していきたいというスタンスは、僕たちの生き方そのものであるから。

今年はスタートアップの世界的ブームで(TechCrunchの編集長Erick Schonfeld氏はそれをスタートアップのカンブリア爆発と呼んだ日本でもたくさんの若手起業家が登場したし、それに伴ってアーリーステージのベンチャーキャピタルやエンジェル投資家の活躍が大変に注目された。プレイヤーとして当事者をやっている僕でさえ、この急激な変化が手に取るように分かった1年だったから、相当なものだったと思う。僕は2月の初旬までこういうムーブメントや生き方とは全く無縁だったし、僕の起業はたまたま2011年の春だったというだけで、数年前から起業するつもりでコツコツ準備を進めていた。前の記事から言葉を借りると、僕の頭の中に「箱」のようなものが用意されて、ときどきその思考の箱に入り込んで、自分が将来何をやるかについて考えてきた。いつか起業しようと思ったのは13歳のときで、5年後の18歳のときに具体的な方針を立てた。会社を作るタイミングと条件は、「資本投下できること」「一生の仲間とチームが作れること」この2つだった。今年は、それが揃った。

僕の会社も含めて、2011年に立ち上がった会社が2年後も生き残っているかどうかは、まだ分からない。あと半年後くらいにはある程度わかってくると思う。仲間のためにも、生き残らなければいけないという焦りは、常にある。

この仕事にはタイムリミットがある。

これから起業をするという人のために、僕が会社を始めてから最初に起こったことを書いておく。それは、いきなりの大成功でも、堅実な利益でも、多少注目を浴びたことによる恍惚感でも、ビジョナリーでもない。ただの「閉塞感」だ。会社を始め、サービスを始めて、それで世界は少しでも良くなっただろうか?周りがちょっと注目しているだけじゃないか。思うようにいかないと悩んでいる間も資本金は少しずつ減っていく。何より怖いものは、僕らは閉塞感だと学んだ。問題が大きすぎて、最初に抱いていたビジョンを忘れてしまうことだと学んだ。方針転換や撤退に対する覚悟も大事だと悟った。なによりチームの粘り強さと、仲間と知恵を絞って解決に努めること、少しずつ前進して組織にノウハウを貯めていく必要があると思った。

そして僕のチームはいま、その道中にある。きっと周りの起業家仲間たちも、同じことで悩んでいる。

2012年になった。今年はどんな1年になるだろうか。今年の上半期迄に、支援してくれている人たち、両親、仲間のために、しっかりと実績を残して誠意を示したい。それが僕の今年の仕事だと思ってる。

出版も起業も、昨年はやたらと目立つことをしてしまった。目立ち始めると一定の割合で、批判も出てくる。世の中には、揚げ足をとるのが大好きな人たちもいる。でも今回『PRAY FOR JAPAN』の出版で学んだ、確かなことが一つあった。震災を題材にしたこういうデリケートな本だから、批判も殺到するだろうと、編集チームはみな覚悟した上でこのプロジェクトを進めたのだけど、実際のところほとんど批判が無かった。0.2%くらいだった。それは実はすごいことなんじゃないだろうか。僕らがやったことはシンプルだった。真剣に考えて、真摯にものづくりをしただけだった。

僕はときどき「自分の選択は正しいのだろうか?」と考えるとき、死んだおばあちゃんのことを思い出す。あの人は強い人だった。あの人が生きていたら、あの人の前で胸を張って今の自分のことを言えるかどうか、それが難しい選択をする上で、一番の心の支えになっている。

東京に来てもうすぐ3年になる。32ヶ月前まで、僕は進路未定・引きこもりの高校生のガキだった。この3年間、いろいろあったなあ。クリスマス前に2回も失恋した。5回も引っ越した(僕はどうやら片付けが苦手で、部屋がどうしようもなく散らかると引っ越したくなる性格らしい)3年でこれだけ濃い体験ができんだったら、もう5年くらいあれば、何かで世界一にでもなれそうな気分だ。どうだろう?

@mocchicc

※ この記事は酔って執筆されました。

良い話し手になるための6つのエッセンス


IVSでの優勝時の写真 (出典:Techwave)

今年は『PRAY FOR JAPAN』の出版やLabitの創業もあって、新聞や雑誌の取材は月に2〜3回、講演やスピーチも20回近く引き受ける機会がありました。自分でサービスを作り始めてから、投資家向けや、同世代起業家とのピッチ大会でプレゼンすることも急激に増えました。僕は、もともと人前で話すのが得意ではなく、ごく平均的に緊張するタイプの人間です。人見知りで、自分の声や振る舞いにも自信がなく、電話や写真に撮られることが本当に苦手でした。上京して、社会が広がるにつれて「人前でもっと上手に話したい」と思うようになります。この記事は、僕が講演やスタートアップにおけるプレゼン(ピッチトーク)を重ねるなかで、気づいたことを備忘録としてまとめたいと思います。近況を交えて。

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